妹はいのちをかんじる

 

 

見慣れ始めた部屋にとぎれることなく鳴り響くゴーーーという機械音と、規則的なポンプの音。

 

 

まるで病院の施設を切り取ったかのように設置された見慣れない酸素室で、ひとつのいのちが燻ってる。

 

 

 

もう自分でお布団をかけることなくて、不規則に歪む心臓のリズムを薄い腹部ごしに見守る。

 

肥大した心臓は呼吸器を圧迫し、肺に水が溜まってるらしい。

 

二種類の薬はシロップみたいでおいしいらしくがぶ飲みしてる。

細くなってしまった手足で答えてくれるだけでもほっとする。

 

ふらつく体でも外に出たがる。好奇心なのか、弱みを見せないためなのかわからない。出してあげたい気持ちと、酸素室から出すのが怖い気持ちとたたかって、結局ちょっとだけ出すんだけど、その後は真っ暗な部屋の見えない床に寝転んでいないふりして一緒にいる。

 

 

 

こんなとき私はうまく泣けないし、

 

必要以上に感覚が研ぎ澄まされている。

 

 

 

 

自分のいまいるべき場所はこの床なのか自問自答し、はっきりした答えはいつもでない。

 

それが実家の仏間でも、

 

朝方の坂道でも変わらない。

 

 

 

雨上がりの地元のにおいが好きだったなあと思い出した。

いつも私は雨の日に限って外に出る子どもだった。

濁流になりそうな湯川の水を飲んで怒られたりしたし、

プラスチックの鎖を伝って降りてくる雨水をずーっと見てた。

 

雨の日は色んな音がして、それはもう音楽だった。

 

昼間の方がみんないなくて、

雨の方が人が静かで、

とても音楽だった。

 

 

 

その間私はいない人たちに生かされていて、それもいまだに変わらない。

 

近くにある大事なものほど粗末にしてしまうようなところも。

 

いつだって何かひとつ後悔しながら選択し続けるところも。

 

 

雨の日なんか関係なく人間生活を近くに感じる場所にきてから、すっかり外に出なくなってしまった。

 

そうやって忘れていくことは沢山ある。

 

家の中に作った唯一の希望もどんどん移り変わって苦しくなる。

 

 

 

雨に濡れたコンクリートのにおいや、上りきった湿度のにおい、轍を走るタイヤの音なんかが好きなのではないんだなと一昨日くらいに気がついて、

つぶれたカエルが全然いないなぁと思う。

 

 

 

換気できない部屋の湿度を5度あげることもできない。

 

あちこちで生まれ死んでいくいのちに、なんの関心もない。

 

かといって目の前のことにいっぱいいっぱいかといわれればそんなこともない。

 

 

ただ身につまされてるようなきもち。

 

 

 

そして1番優先しなきゃいけないんだろうってことをもう何年も後回しにして甘えていて、それをごめんねという気持ちだけで片付けさせてもらってる。

 

言葉も表情もうまくいかないので、

それは私が死んでから私に頑張ってもらおうと他人事のようにおもってる。

 

 

 

いいお天気よりも曇り空のほうがまぶしくて目がいたい。

 

雨も受け止めれるくらいの夏がくればいいのに。